เข้าสู่ระบบその日の夜は、珍しく悠斗の帰りが早かった。
時計を見ると、まだ七時半。 玄関のドアが開く音を聞いた瞬間、私は少しだけ驚いた。「ただいま」「お、おかえり」「なんだよ、その反応」 悠斗が笑う。「いや、今日は遅いと思ってたから」「あー。予定してた打ち合わせ飛んだ」 そう言いながらジャケットを脱ぐ。 私はそれを受け取ってハンガーに掛けた。 いつもの動作。 何年も繰り返してきた動作。 当たり前すぎて、考えたこともなかった。書店を出ると、午後の日差しが歩道に落ちていた。「この近くに、静かな喫茶店があるんです。行ったことはありますか」 朝倉さんに聞かれて、私は少し考えた。「もしかして、角を曲がったところの古いお店ですか?」「はい。木の看板があるところです」「あ、あります。前に一度、一人で入りました」「そうなんですね」「プリンを食べました」 朝倉さんが笑った。「固めのプリンですよね」「そうです。朝倉さんも知ってるんですね」「何度か行っています。コーヒーがおいしいので」「私、プリンしか覚えていませんでした」「それも十分な記憶だと思います」 私たちは並んで歩き出した。 以前、一人で歩いたことのある道を、今日は朝倉さんと歩いている。ほんの数分の距離なのに、隣に誰かがいるだけで、見慣れた景色が少し違って感じられた。「そういえば、工房の帰りにパン屋さんへ寄れましたか」「寄れました。シナモンロールとミルクパンを買ったんですけど、どちらもおいしかったです」「よかったです。おすすめしておいて、お口に合わなかったらどうしようかと思っていたので」「大丈夫です。むしろ、次に行く理由ができました」「それなら安心しました」 信号が青に変わり、私たちは横断歩道を渡った。 何でもない会話をしながら歩く時間が、思っていたより自然だった。◇◇◇◇ 喫茶店の扉を開けると、コーヒーの香りがした。 以前来た時と同じ、少し暗めの照明。木製のテーブルと、壁に掛けられた古い時計。 店員さんに案内されて、私たちは窓際の二人席に座った。 向かいに朝倉さんがいる。 それだけで、私は少し緊張した。 展示室では、いつも写真を見ながら話していた。工房では器があったし、書店では本があった。 でも今は、テーブルの上にメニューが二冊あるだけだった。「何にしま
朝倉さんから小冊子の案内が届いて、最初の週末になった。 私は午前中に洗濯を済ませ、昼食を食べてから出かける支度を始めた。 書店へ行く。それだけなら、もう特別な外出ではない。仕事帰りにも休日にも何度か足を運んでいるし、店員さんとも顔見知りになった。以前は少し緊張していた入口も、今では自然に扉を開けられる。 それでも今日は、いつもより服を選ぶのに時間がかかった。 小冊子を買うだけなのだから、普段着で十分だと思う。けれど、もし朝倉さんに会えたらと考えると、少しだけ気に入った服で出かけたくなった。 クローゼットから淡いクリーム色のニットを出し、紺のスカートと合わせてみる。鏡の前に立つと、落ち着いた色合いが思ったよりしっくりきた。 私は小さなイヤリングをつけ、バッグを肩にかけた。 朝倉さんと会う約束をしているわけではない。でも、会えたら嬉しい。 最近は、その気持ちを無理に別の言葉へ置き換えなくなっていた。◇ 書店に着くと、入口近くの平台に小さな冊子が並んでいた。『棚の上で待つもの』 見慣れた写真が表紙になっている。 工房の棚に並ぶ器。窓から差し込む柔らかな光と、控えめに配置された文字。 スマホの画面で見るより、紙に印刷された写真は少し温かく感じられた。 私は一冊手に取った。 薄い冊子だったけれど、表紙にはさらりとした手触りがあり、ページを開くと写真と短い文章がゆったりと配置されている。 工房の作業台や乾燥を待つ器、焼き上がったばかりの鉢、窓辺に置かれたカップ。 どの写真にも、物が置かれている場所だけでなく、その前後に流れている時間が写っているようだった。 最後の方に、見覚えのある写真があった。 器が並ぶ棚。 工房で私が好きだと言った一枚だ。 その隣には、短い文章が添えられていた。『まだ使われていないものにも、そこへ至るまでの時間がある。これから誰かの暮らしへ向かうものを、未完成とは呼びたくない。』
朝倉さんと連絡先を交換してから、三日が経った。 その間、私は何度かスマホの連絡先一覧を開いた。 朝倉蓮。 きちんと登録されている名前を見て、少しだけ落ち着かない気持ちになる。 別に、何かを待っているわけではない。 朝倉さんは小冊子の正式な案内ができたら送ると言っていたし、それまでは特に連絡する用事もない。私から何か送らなければならない約束もしていなかった。 それなのに、スマホを開いた時、ふと名前を探してしまう。 そんな自分に気づくと、少し恥ずかしかった。 以前なら、こういう気持ちを持つこと自体に戸惑っていたと思う。 誰かからの連絡を楽しみにする。 何か話したいことが浮かぶ。 その人が今何をしているのだろうと、少しだけ考える。 そういう気持ちが、自分の生活を相手中心に戻してしまうのではないかと怖かった。 けれど、今は少し違う。 会社ではいつも通り仕事をしているし、帰れば夕飯を作る。先日買った副菜の本から新しい料理を試したり、週末の洗濯をいつ済ませようか考えたりもしている。 その中で時々、朝倉さんのことを思い出す。 今のところ、それくらいだった。◇◇◇◇ 木曜日の夜、私は丸いテーブルで夕飯を食べていた。 メニューは鶏肉ときのこの炒め物に、豆腐の味噌汁。淡い緑の小鉢には、昨日作ったにんじんのナムルを少しだけ入れてある。 副菜の本を参考にしたものだけれど、ごま油を入れすぎたらしく、思ったより香りが強くなってしまった。 それでも鶏肉の炒め物と一緒に食べると、案外ちょうどいい。 私は小鉢からにんじんを取りながら、次はもう少し細く切ってみようと考えていた。 その時、テーブルに置いていたスマホが震えた。 何気なく画面を見る。 そこに表示された名前に、箸を持つ手が止まった。『朝倉蓮』 私は一瞬だけ画面を見つめ、それから箸を置いた。 メッ
◆ 悠斗が一人で暮らすようになってから、台所の使い方は少しずつ変わっていた。 以前は料理をする場所というより、冷蔵庫から飲み物を取り出したり、真琴が用意してくれた食事を温めたりする場所だった。流しに食器が残っていても、翌朝には片づいているのが当たり前で、調味料がどこにあるかさえ曖昧だった。 今は違う。 仕事帰りにスーパーへ寄り、冷蔵庫の残り物を思い出しながら買い物をする。帰宅したら米を研ぎ、必要なら野菜を切る。食べ終えた皿は自分で洗い、翌朝のゴミ出しも忘れないように確認する。 どれも特別なことではない。 以前の真琴が、毎日していたことだった。 その事実を思い出すたびに、悠斗は自分がどれほど何も見ていなかったのかを実感する。 ただ、最近はそこから先の考え方が少し変わってきていた。 真琴は大変だった。 だから自分も家事を覚えなければならない。 最初は、そんな気持ちが強かった。 けれど、一人分の洗濯物を干し、夕飯を作り、散らかった部屋を片づける日々が続くうちに、ようやく分かってきたことがある。 これは反省のためにする作業ではない。 自分がここで暮らしていくために、必要なことなのだ。◇◇◇◇ その日の夕飯は、鶏肉と野菜の炒め物だった。 以前、高瀬から教えてもらった簡単なレシピを少し変えたもので、冷蔵庫に残っていたキャベツとしめじを使った。 鶏肉にはしっかり火が通っている。味つけも悪くない。 ただ、野菜から思った以上に水分が出て、少しべちゃっとしてしまった。「……まあ、食えるな」 悠斗は皿に盛りつけ、味噌汁と一緒にテーブルへ運んだ。 味噌汁には豆腐とわかめを入れてある。以前は味噌の量が分からず、薄すぎたり濃すぎたりしていたが、最近は計量スプーンを使わなくても、ある程度同じ味にできるようになった。 食べながら、ふとスマホに目が向く。 真琴に写真を送りたくなることは、今でもあった。
朝倉さんから預かった封筒は、しばらく丸いテーブルの上に置いていた。 もちろん、置きっぱなしにしていたわけではない。 何度か封筒に戻し、バッグに入れようとして、また出した。 写真カードを眺める。 二つ折りの紙を開く。『棚の上で待つもの』 その仮のタイトルを読むたびに、工房で見た棚の器を思い出した。 まだ誰の家にも行っていない器。 でも、寂しいわけではなく、静かに次の場所を待っているように見えた器。 あの日、私はその写真が好きだと言った。 朝倉さんは、それを覚えていてくれたのだろうか。 そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。 写真カードは、食器棚の青みの深皿と淡い緑の小鉢の近くに一度置いてみた。 並べてみると、少し不思議だった。 工房で見たもの。 書店で受け取ったもの。 私の部屋にあるもの。 別々の場所から来たはずなのに、静かにつながっている。 私はカードをしばらく眺めてから、封筒に戻した。 今度、朝倉さんに会えたら、ちゃんと自分で言おう。 ありがとうございました。 小鉢、使っています。 それから、写真カードも嬉しかったです。 何度か頭の中で言葉を並べてみる。 でも、準備しすぎると、かえって不自然になる気がした。 だから最後には、封筒をバッグに入れて、それ以上練習するのをやめた。◇◇◇◇ 週の半ば、仕事帰りに書店へ寄った。 朝倉さんがいるかどうかは分からない。 でも、カードのお礼を言いたい気持ちは、ちゃんと私の中にあった。 書店のドアを開けると、いつもの紙とインクの匂いがした。 掲示板には、新しい案内がいくつか増えている。 読書会。 地域の映画上映会。 小さな手作り市。 そこに、朝倉さんの小冊子の正式な案内はま
副菜の本を買ってから、私は何度かそのページを開いた。 にんじんのナムル。 きのこのマリネ。 豆腐の和え物。 どれも難しい料理ではない。 それでも、淡い緑の小鉢に入れることを考えながら見ると、少しだけ楽しくなる。 週末には、きのこのマリネを作ってみた。 酢を少し入れすぎた気がする。 でも、冷蔵庫で少し置いたら味が馴染んで、思っていたより悪くなかった。 小鉢に入れると、量もちょうどいい。 食卓の端に置いたそれを見ながら、私はまた少し笑った。 前なら、失敗したかどうかだけを気にしていた。 今は違う。 次はもう少し酢を減らそう。 しめじだけでなく、舞茸も入れてみよう。 そう考える時間まで、少し楽しい。 小鉢はもう、食器棚で特別扱いされなくなってきていた。 朝、自然に手に取る。 夜、少し残ったものを入れる。 洗って、拭いて、また棚へ戻す。 その繰り返しの中で、少しずつ私の器になっていく。◇◇◇◇ その日の仕事帰り、私はまた書店へ寄った。 朝倉さんに会えるかもしれない。 小冊子の案内が出ているかもしれない。 そういう気持ちはあった。 けれど、今日はそれだけではない。 副菜の本の隣にあった料理エッセイが気になっていたし、掲示板の読書会案内も少し見てみたかった。 書店のドアを開けると、いつもの紙とインクの匂いがした。 入口の平台には、季節の本が並んでいる。 私はまず掲示板を見た。 読書会の案内。 地元作家のトークイベント。 手作り市。 小冊子の案内は、まだなかった。 少しだけ残念に思う。 でも、その残念さに足を引っ張られるほどではない。 私は暮らしの棚へ向かった。 棚の前で料理
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。